「私にはこの人たち以外に何も残っていません」 バフムート方面でのウクライナ軍の反転攻勢の現状

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「アルテーミウシク」と非共産化前に呼ばれていたバフムートはドネツィク地方に位置し、2014年にはすでにウクライナ軍と親露派武装勢力の戦場となっていました。当時、戦闘は数ヶ月続きましたが、最終的に占領軍はその地域から撤退しました。人口7万人を超えるこの街は、過去8年間、復興と発展を試みてきました。バフムートは塩製造業の中心地であり、いくつもの工場が稼働しており、ブランドシャンパンまで生産していました。しかし、ロシアによる全面侵略が始まって、全てが一変しました。2014年に一時的に占領された地域との境界線に近かったため、2022年の春、この街は電気もなく、砲撃や空爆に見舞われました。2023年初秋の時点で、ほとんどすべての建物とインフラが深刻な被害を受けているか、あるいは、破壊されています。そのため、住民の99%が帰る場所を失ってしまいました。

2022年の春以来、Ukraїnerのチームは占領から解放された地域のウクライナ人の抵抗と強さの物語を記録してきました。私達はキーウのポリッシャ地方、シヴェリヤ地方、スロボダ地方、黒海沿岸地方の解放された街と村を訪れました。この旅で撮影された20本以上のドキュメンタリーのビデオと記事は、私達のメディアプラットフォームでご覧いただけます。また、2023年には、Ukraїnerの創設者であり、この旅の参加者でもあるボフダン・ロフヴィネンコによるレポート集「Деокупація. Історії опору українців. 2022(占領からの解放。ウクライナ人の抵抗の物語。2022年)」が出版されました。後に英語版も出版される予定です。現在、2023年夏の作戦の成功とウクライナの防衛者たちによる複数地域での勝利を記録し続けています。8月、私達のチームは、ウクライナ軍が占領者を押し戻し続けているバフムート近郊の集落を訪問しました。

要塞都市・バフムート

バフムートを巡る一連の戦いはロシアによるウクライナに対する全面戦争において最も多くの血が流れた場面であるともよく呼ばれています。2022年8月にバフムート周辺で激しい戦闘行為が始まり、今日に至っています。

東部戦線ではロシアがウクライナに対して兵力で5対1の優位に立っていると、ウクライナのオレクサンドル・タルナウシキー准将はバフムートにおける戦闘の前に主張しました。ロシアはドネツィク地方のこの街を軍事的だけでなくて、政治的な目標にもしており、どんな犠牲を払ってもこの街を占領しようとしています。この都市が占領されれば、敵はこの地域からさらに西にあるスロヴヤンシクとクラマトルシクを占領できる可能性があったかもしれません。ロシア政府は自らの国民と世界に対して、「ドンバスの人々を守る」ことでウクライナへの侵略を恣意的に正当化しており、東部地域の完全な「解放」を強調していました。しかし、ウクライナの防衛者たちは、侵略者の計画を阻止するために全力を尽くしました。時には限界にも達しそうなウクライナの防衛者たちの努力のおかげで、バフムートは要塞都市となりました。

写真:Getty Images

バフムートを巡る戦闘は2022年12月に占領軍が街に接近したときに激化し始めました。ロシアの民間軍事会社「ワグネル」という、傭兵と有罪判決を受けた犯罪者で成り立っているテロ武装集団は、敵の襲撃に大きな役割を果たしました。2023年の冬と春は激しい市街戦が繰り広げられる時期となりました。敵は「砲撃の餌」を含め、この地域での軍事資源を惜しみませんでした。ウクライナ軍は、接近戦、包囲、補給線の遮断による絶え間ない危機という非常に困難な状況で占領者に抵抗していました。5月末、ロシアはバフムート(というより、その跡という言い方の方が的確ですが)を制圧したと発表しました。しかし、その前に都市の南西部の郊外、そして隣接する高台や小さな集落が、数カ月にわたって激しい武力衝突の舞台となりました。

ウクライナ軍はバフムート方面で占領軍を攻撃し、2023年8月末時点で44km²の領土を占領から解放しました。軍は殆どバフムートの南側で前進していました。Ukraїnerのチームはドネツィク地方を訪れ、これらの攻勢に関わった兵士たちと話をしました。この旅は象徴的にもウクライナ独立記念日(8月24日)とも重なりました。

殆どすべての林地や塹壕には、戦闘任務を遂行し続ける兵士たちがいるため、解放された陣地を訪れることはできませんでした。敵は陣地にしがみついています。なぜなら、そうしなければ、バフムートが半包囲されてしまうからです。そのため、私達は撤退地という訓練場や前線の人口密集地でウクライナの防衛者たちと話をしました。

バフムート方面での戦闘

ヴラド・シェフチュク(コードネーム:狐)は第80独立空挺強襲旅団の中隊長です。2022年2月、キーウの領土防衛部隊に入隊し、その後、ウクライナ軍で精鋭部隊の一つとされる第80旅団に移籍しました。冬、同旅団はバフムートを防衛しており、そこを離れた後、ほとんど即座にバフムートの南側で反撃を開始しました。ここ数カ月、第80独立空挺強襲旅団はバフムートの南で突撃作戦を展開し、ほぼ毎日前進しています。

兵士たちによれば、ウクライナの突撃はロシアのそれと大きく異なるようです。敵は人数を頼りに、より多くの歩兵を攻撃に投入しています。ロシア軍は死傷者が多いですが、歩兵によるこの継続的な圧力のおかげで成功を収められます。その一方、バンというコードネームを持つ突撃隊員によれば、ウクライナ軍は作戦の立案と偵察に多くの時間をかけ、突撃自体は細心の注意と統制のもとに行われているとのことです。

-私たちは行動計画を慎重に立てています。主な目標が2つあります。それは戦闘任務を完遂することと、隊員を保護することです。そのため、任務を達成すると共に、できるだけ犠牲者を出さないよう、すべてを計画しています。

いずれにしても、ウクライナ軍は2022-2023年の冬のロシア軍の攻撃を上回るスピードで前進しています。

また、特に西側パートナー諸国からの武器供給のおかげで「砲弾飢饉」をようやく克服し、ウクライナ軍はバフムート方面において砲撃面にて敵に匹敵するようになりました。しかしもちろん、弾薬の倹約と、その最も効果的な使用のための明確な計画もその一助となりました。一方、敵はウクライナ人とは異なり、軍事資源が不足していると感じず、それを節約する方法も知らなかったため、全面侵略が始まってからの最初の数カ月に比べて砲弾や砲撃の数が減りました。

前線における独立記念日

バフムート方面で防衛を担う兵士たちと話す機会を得たのは、ウクライナ全国がウクライナ国旗の日と独立記念日を祝った8月23日から25日というとても象徴的な日のことでした。当時、東部にも特別に高揚した雰囲気がありました。すべての検問所では、兵士たちとお祝いの言葉をかけあっていました。だからこそ、私たちは話す機会を得られたバフムート方面の兵士たちに、「あなたにとってウクライナとは何ですか?」という簡単でありながら、最も大切な質問をすることにしました。アラディンというコードネームを持つヴォリーニ地方はルツク出身の第80独立空挺強襲旅団所属の突撃隊員は、即座に次のように答えてくれました:

-ウクライナは私の生まれ故郷です。ここは私の子供たちが育っている、そして、私の親が育った場所です。外国に行ったことはないのですが、ウクライナを出て行くつもりもありませんでした。その代わりに、ウクライナのあちこちを旅して、多くの都市を訪れ、美しい風景を見てきました。ウクライナ人であることは心の喜びです。私はそれを誇りに思っています。

アラディンは志願兵としてウクライナ軍に入隊し、第80独立空挺強襲旅団所属に配属されました。2023年3月、彼はバフムートで最初の戦闘任務に就きました。当時は突撃旅団であったにもかかわらず、防御に就いていました。この都市の防衛は非常に困難で、3月にはすでに廃墟となっており、ロシア軍は1日に2~3回、防衛線を突破しようとしていたと彼は想起しています。

バフムートを離れた後、第80独立空挺強襲旅団は直ちに側面からの反撃を開始しました。アラディンによれば、彼の旅団はロシア軍よりもはるかに前進しているようです。なぜなら、占領者が作戦をよく計画するところを見たことがないから、と彼は述べています。ロシア軍はまず砲撃と航空機ですべてを一掃し、それから無謀にも歩兵部隊を投入します。アラディンはロシア人捕虜と話したことがあり、彼らはなぜここにいるのか、何のために戦っているのかわからないようです。その一方、ウクライナ軍はゆっくりと、しかし確実に前進しています。

アゾフ海沿岸地方のプリモルシクという街出身の空挺部隊員であるスキフは祖国に対してアラディンと同じ考えを共有しています:

-私にとってウクライナはすべてです。ここは私の母国です。私はこれまでにウクライナの多くの都市に住んできました。生まれたプリモルシク、ブチャ、キーウなどです。小さな息子には自由な国で暮らしてほしいです。これが私の戦う動機です。だから私にとって、ウクライナはすべてなのです。自然も人もすべてが素晴らしいです。ここのすべてが好きです。

このコードネームを決めたのは、彼が生まれたプリモルスクが古代にスキタイ人が支配していた地域の一部だからです。彼がウクライナ軍に入隊したのはそれほど前のことではありません。なぜなら、全面戦争が始まったときに彼の妻が妊娠していたからです。息子が生まれると、軍と雇用契約を結び、他の人からの勧めもあり第80独立空挺強襲旅団に入隊しました。彼は、自身の最初の攻撃であったバフムートの南にあるドネツ・ドンバス運河の解放作戦を思い出しています。そこには大きい塹壕が二つありました。敵は攻撃に強く抵抗していましたが、スキフは他の突撃隊員とそこに入ることができ、ワグネル兵が失地回復を試みる間、さらに2日間その陣地を確保し続けました。彼は微笑みながら、チャンスがあればいつでも前進しなければならないと付け加えました。

「狐」というコードネームを持っている中隊長はウクライナのことを考えることが、最も辛い時期に諦めないための支えになると述べています。だからこそ、今、最前線でウクライナの独立を勝ち取るために戦っています:

-私にとってのウクライナは、キーウから小さな故郷のパウロフラードに帰るときのことです。車でそこに入ると、どこまでも続く草原や野原という息をのむほどの景色が目に飛び込んできます。人生の苦しい時期には、果てしない空と空間、国が自分のものであった平和な時を思い出します。その土地で育てられ、その土地を耕し、その土地を愛し、その土地のために戦う人が、その国で平和に暮らしていたときのことです。

狐は2014年にはすでに志願兵としてロシアによるウクライナに対する戦争に関わり、全面戦争が始まると、改めて兵士となり、キーウ領土防衛部隊に入隊しました。その後、第80独立空挺強襲旅団に移籍し、中隊長になりました。バフムートで最も激しい戦闘が行われていたとき、狐はそこから短いビデオを録画し、ウクライナ軍がこの要塞都市を守っており、多くの敵を撃破していることを伝えていました。多くのウクライナ人にとって、彼のコンテンツが安らぎになりました。2023年初秋現在、彼のtiktokアカウントには15万人以上のフォロワーがいます。

私達は第3独立強襲旅団の兵士たちからも話を聞きました。「エンジェル」と呼ばれる同旅団の突撃隊員は全面戦争が始まったときに、建設班で働いていたポーランドからウクライナに戻りました。彼は自分にとっての母国の意味について次のように述べています:

-ウクライナは私達が持っている唯一のものです。ここは私が暮らしたい場所です。ウクライナは私の心の半分です。

ウクライナの勝利の後、彼はドネツィク地方に残り、ロシア軍によって傷つけられたこの地方を再建したいとのことです。

また、第56独立自動車化歩兵旅団の兵士たちとも話をする機会を得ました。同旅団はかつてマリウポリに駐屯しており、兵士の多くはマリウポリ出身です。その中の一人は「サタン」というコードネームで呼ばれています。本格的な侵略が始まる前、彼はマリウポリにアパートを持っていました。しかし、占領者は彼の家を破壊し、今は跡形も残っていません。だから、サタンは自分のコードネームの通りに、全力で戦っており、ウクライナのことについて躊躇わずに次のように話しています:

— ウクライナは私の家族であり、友人であり、親戚であり、そして今は戦友です。私はマリウポリ出身だから、ウクライナで他に持っていたすべてのものを失いました。だから、私にはこの人たち以外に何も残っていません。

強制された日常になってしまった戦争

私達が戦車兵と話をした林地のすぐ裏には地元の女性が牛の放牧をしていました。彼女にとっては、田舎の未舗装道路を走る戦車を見るのが当たり前のことになってしまったでしょう。この1年半以上、ドネツィク地方の生活はまったく新しいリズムを刻んでおり、2014年に戦争が始まったときよりも、さらに予測不可能になっています。

私たちは毎日、撮影を終えてクラマトルシクに戻り、そこでアパートを借りていました。昨年の5月、夜間外出禁止令はまだ始まっていなかったものの、夕方5時には人影もなかったことを覚えています。当時、クラマトルシクは毎日、敵の接近を待ち構える緊張状態にありました。それほど遠くないリマンでの戦闘や、セヴェロドネツィクに向かうロシア軍の進撃を注視していました。夏には、ロシア軍はクラマトルシクまで20キロしかないドネツ川の左岸を占領しました。しかしその後、敵は北部のリマンまでに押し戻され、東部への進撃速度も非常に低下したため、現在もウクライナが支配するドネツィク地方最大の都市であるクラマトルシクは、占領の恐怖を完全に克服しました。

ロシアはクラマトルシクを定期的にミサイルで攻撃しており、住宅地や重要なインフラを狙って破壊しています。クラマトルシクにいると、この街は最も困難な時期を乗り越え、新たな状況に適応しながら生き続けることを学んだかのように思えます。そして、人口の半分は軍人である印象があります。ほとんどすべての通りに軍服や軍用品を購入できるミリタリーショップが出てきて、街の中心部のいたるところに迷彩柄の緑色の車が駐車されており、ケバブ屋台にはミリタリーグリーンのTシャツを着た人々が列に並んでいます。これらの車からほど近いところでは、若い少年少女たちがスケートボードに乗っており、ヴィシヴァンカ(刺繡を施した民族衣装のシャツ)を着た少女がバスを待っています。その日は独立記念日だったからです。

多くの地元民はクラマトルシクに残ったか、ロシア兵がこの街にたどり着く見込みがないと分かって、クラマトルシクに戻っていました。今では、夕方5時になると、中心部の通りは人で溢れかえっています。鉄道駅にはキーウからの列車が到着し、駅前のホームや広場は再び賑わいを見せています。しかし、2022年4月8日、クラマトルシクで61人が死亡したロシアによるこの場所へのミサイル攻撃は、いつまでも忘れられることはありません。このテロ攻撃により、この街への鉄道は7カ月近くも中断されました。

このような改善された状況にも関わらず、この街はまだ息苦しいように見えます。多くの家では窓が板で塞がれ、多くの商店やカフェ、企業が1年半前から休業しています。かつて人気だった場所も廃墟と化しています。

私達がクラマトルシクで過ごした数日間に渡り、ここでの生活が止まることがないことを見たおかげで安心した一方、ロシア軍による血なまぐさい悲劇を思い出さずに街を歩くことが難しいため、不安や混乱も生まれました。そのひとつが、13人の市民を殺害したピザ屋「Ria Pizza」へのミサイル攻撃です。廃墟の隣には、人々が手作りの慰霊碑を建て、死亡した人の肖像を隣り合わせに並べています。そこに立って眺めていると、後ろから誰かが歩いてくる音がします。ハンドバッグを肩にかけたグレーのドレスの女性が、破壊されたピザ屋には目もくれず、通り過ぎるところでした。彼女は毎日ここを通っているようです。またあるとき、Ria Pizzaの前を通りかかったとき、肖像画のそばに座って頭を下げている二人目の女性を見ました。近づいて彼女に何かを尋ね、抱きしめたかったですが、彼女の心の傷をいっそう痛めつけてしまうのが怖かったので、近づきませんでした。

支援について

このプロジェクトは、チェコ共和国外務省の財政支援によるTransition Promotion Programの枠内で実施されている。ここに記載された見解は執筆者のものであり、チェコ共和国外務省の公式見解を反映するものではない。

コンテンツ作成スタッフ

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プロデューサー:

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ヴィタリー・ポベレジニー

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ヴィクトリヤ・ブドゥン

翻訳:

ノヴィコヴァ・エヴゲーニヤ

翻訳編集,

日本語版コーディネーター:

藤田 勝利

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