ヘルソンを引き渡したのは誰か? 南部の戦闘が実際どのように行われたのか?

Share this...
Facebook
Twitter

ヘルソンとウクライナ南部全体は、ロシア軍の攻撃を受けた最初の地域の 1 つであり、この記事を出す時点で、5か月以上にわたって占領者の一時的な支配下に置かれ続けています。

Ukraїner / ウクライナーは、占領当局に対する平和的なデモを武力で解散させた後もあきらめなかったヘルソンの住民の抵抗に関する英雄的な物語を記録しています。 市民は、侵略国がよその土地を占有するためにすでに何度も使用した方法でロシアに都市を乗っ取られるのを防ぐために、できる限りのことをしています。
この記事では、2月24日以降、ヘルソンと近隣の村での出来事を振り返り、南部の抵抗についてお伝えします。

ドニストル川の西部とヴォルガ川中流の東部の間にある黒海草原の領土は、かつてディーケ・ポーレ(荒野)と呼ばれていました。ここでの生活は、独自の特別な草原ならではの生活でした。ここは、18世紀の最後の四半世紀まで、 遊牧民、クリミア・タタール民族とザポリッジャ・コサックだけがそこに住んでいて、これらの領土を徐々に開拓していました。

その当時でも、ロシア帝国は他の土地に対する略奪的な意図を抱いていました。18世紀、露土戦争に勝利した後、クリミア半島を占領しました。また当時、現代のウクライナの2つの南部地域であるタウリヤ地方と黒海沿岸地方の全領土を支配していたクリミア・ハン国における人口の民族構成を変更する計画も策定しました。当時、ロシア帝国には2つの目標がありました。戦争で人的資源を使い果たしながらも(ロシア帝国にはそこに行かせる人がいませんでしたが)アゾフ海沿岸地方とタウリヤ地方の地元住民たちのアイデンティティを「薄める」ことと、最終的にそこからコサックを追放すること(1775年にエカチェリーナ2世はザポリッジャ・シーチを排除しました)でした。そのため、ギリシャ人、アルメニア人、ジョージア人、ブルガリア人がクリミアからアゾフ海沿岸地方とタウリヤ地方にやって来て、ザポリッジャのコサックの一部と一緒に暮らし始めました。

ロシア帝国は、現在のアゾフ海沿岸地方、黒海沿岸地方、タウリヤ地方における大きな領土をタウリヤ県またはノヴォロシアと呼んでいました。それは19世紀の初めから20世紀の前半まで存在し、そしてこの間ずっと、ロシア人はこれらの領土とウクライナ人についてばかげた神話を根付かせてきました。たとえば、大草原がロシア帝国のおかげで開発されたことや、クリミアのキリスト教徒がイスラム教の影響から「解放」されたことなどがそれにあたります。

220年ーまさにこれほどの時間が経った今、2022年にクリミア半島を通ってウクライナの領土にやってきたロシアの侵略者によって、再びタウリヤ県の地図が描かれています。しかし、彼らは、どれだけ自由を愛するウクライナ人に対処しなければならないかを、知らないかもしくは忘れているのです。

全面的な侵略までの期間

ロシア連邦による東部地域への侵攻、クリミア占領、ユーロ・マイダン革命によりウクライナ全体の転換点となった2014年、タウリヤ地方と黒海沿岸地方も困難を経験しました。ウクライナの親ヨーロッパ的方針をめぐる闘争の文脈における主な出来事は、ユーロ・マイダン革命に先立つ出来事でした。これは、親ロシア派の「地域党」の事務所での「侵攻」、予算機関の職員が半ば強制的に行かされ地方自治体によって組織された「アンチマイダン」、地元の自警団によって撃退された分離主義者によるヘルソン州政府の掌握の試み、そして新しい市長のヴォロディーミル・ミコライェンコの選挙です。ちなみに、8年後、ヴォロディミール・ミコライェンコはロシアの占領者に捕らえられますが、所謂「イズベスチヤ」テレビチャンネルの取材中に、彼は親ウクライナの立場を表明し、ロマーン・シュヘーヴィッチを英雄と呼びました。ヘルソン州をノヴォロシアに形成し、「ロシアの世界」の後援の下でロシア連邦に加盟させる計画は失敗に終わりました。ヘルソンの中心部にある自由広場では、青銅のレーニン像が「天の百人の英雄」のモニュメントに置き換えられました。その後数年間、ヘルソンとその周辺の住民は通常の生活を送っていました。中小企業を発展させ、作物を収穫し、インフラと地元の観光を開発し、芸術に従事していました。しかし、その地域は自由なクリミアではなく一時的に占領されたクリミアの隣でした。

2月22~23日 雲が黒くなってきた

クリミア半島との行政上の国境に位置するチョンハルの検問所では、半島側から砲撃の音が聞こえ、点滅するライトが見えます。後で、これがロシアの国境警備隊がウクライナの国境警備隊に逃げるよう「警告」するものであったことが判明します。国境検問所を通過することは、理由を確認することなくロシア連邦によって停止されます。 ロシアの複数の多連装ロケット砲と自走砲システムがウクライナ本土に向かいます。

2月24日 全面戦争

3:45 敵はカランチャクとチョンハリ検問所を通過して同時移動を開始しています。ヤキウ・ハンジュク記念第59独立自動車化歩兵旅団や、国境警備隊、諜報機関、その他の軍の部隊を含む南部の防衛隊が最初に攻撃を受けました。

その後の出来事のおおよその時間:

6:20 ロシア軍がヘルソン国際空港(チョルノバイウカ村)にミサイル攻撃を開始

9:29 ヴェリキ・コパニとイヴァノヴォ村での戦闘

11:30 アントニウ橋にて、ロシア軍の上陸、橋をめぐる戦闘開始(ヘルソンの北東)

地元住民(安全上の理由から名前は非公開):

― 私は母の家に行くために出かけました。自転車に乗って角まで着いた瞬間、5機のロシアのヘリコプターが電線柱の高さで私の頭上を飛んできました。遠くに航空機の音が聞こえ、大砲が大きな音を上げていました。怖くなって、次に何が起こるか全くわからなかったので、家に帰りました。毎分さまざまな航空機が空に見えました。

2月25日〜28日 攻撃

次の数日間、アントニウカ村は絶え間なくロシア軍の砲撃を受け、アントニウ橋をめぐる戦いは止まらず、クリミア道路での戦闘も同様です。橋の管理が一方から他方へ次々と変わりました。ヘルソンとその周辺地域の防衛者の超人的な努力のおかげで、2月28日まで橋をウクライナ側がコントロールしたが、その後、侵略者の最終的な支配下に置かれています。

オレシュキ近郊で多くの占領者が死亡しました。ノヴァ・カホウカをめぐる戦闘が続いています。地元の水力発電所はウクライナ軍または占領者が次々と変わって管理しています。東部のヘニチェシクは占領され、ロシア軍は行政上の国境を越えてベルジャンシクに向かって移動しています。

3月1日〜4日 ロシアのテロ

3月1日、ロシア軍はヘルソンとノヴァ・カホウカに入ってきました。ヘルソンの領土防衛部隊は、侵略者を阻止する最後の試みを行っています。手持ちの対戦車擲弾発射装置(RPG)1本とモロトフカクテルを除いて、武器を持たずに、男性たちは占領している戦車の列にいきました。残念ながら、全員がブズコウ公園で亡くなりました。彼らについての記憶は、この地域の継続的な抵抗において非常に重要な役割を果たしています。彼らの犠牲は無駄ではありませんでした。

ロシア軍は非常に残忍に行動をとり、住宅地を砲撃し、通りで人々を撃ち、店の入り口の前に地雷を設置し、疑わしいと思われるすべての人を殺したりしています。

ウクライナ軍は、軍と民間人の命を救うために、都市からの撤退を余儀なくされています。占領者は市議会を訪れ、市民とロシア軍との共存という彼らの要求が満たされるという条件でのみ、市役所が機能することを許可します。たとえば、市内の車の移動を制限され、トランクの中身をいつでも確認できるようにし、市民は2人以上で歩くことを禁じられ、軍人はどんな人も止める権利を持っていました。市長のイーホル・コリハイェウは、ロシアの占領者の条件を受け入れ得ざるを得ませんでしたが、彼らは約束を守らず、市の人道的な封鎖を開始しました。

ウクライナのテレビの代わりに、地元のテレビ塔を占拠して、ロシアのプロパガンダを放送し始めています。侵略者によると、これは人々に出来事を彼らのバージョンで信じさせられることができる主な方法です。同じ日に、携帯電話の接続が数時間途絶えました。その時、占拠者は、ヘルソンの人々への人道支援物資の配布に関するテレビ番組を撮影していたことが判明しました。しかし、市民はこれに同意せず、携帯通信がなくても抵抗し始めました。彼らは、広場のトラックからこの配布物を受け取りたいと思っていた小数の人たちを追い払いました。プロパガンダ計画は失敗しました。

3月5日 ヘルソン住民の反抗

ロシアの人道支援物資に対する自発的な平和的デモが実施され、通信が回復した後、ヘルソンの市民は英雄的な行為を行いました。実際の直接的な脅威にもかかわらず、占領当局に対して何千人もの人々がデモに出てきました。(ウクライナの)旗を掲げ、「帰れ!」「ウクライナに栄光あれ!」と叫び、国歌を歌い、ロシアの装備を押し出しました。彼らは、降伏して占領者からの善意を待つつもりはないことを全世界に示しました。

まさにこのような大規模な抵抗により、メリトポリ、ヘニチェシク、ベルジャンシク、トクマク、ノヴァ・カホウカ、ベリスラウ、オレシュキ、スカドウシクなどといった他の一時的に占領された市や村でデモの波が引き起こりました。それは、かつてはあまり積極的ではなかった地域を文字通りおよび情報的に強力な抵抗の中心に変えた原動力でした。ウクライナの旗を持って敵の装甲兵員輸送車に飛び乗ったヘルソン人の写真が世界中で広まりました。

3月6日〜21日 我慢の終わり

ヘルソンの市民は、Vive la Resistance! (フランス語で「抵抗万歳」)というスローガンの下で生き続けています。ウクライナ軍がまだ反撃を開始できないという恐怖と認識にもかかわらず、ほぼ毎日のようにデモが続いています。市民がいなくなるというケースがますます多くなっています。彼らは路上で車に「載せられる」か、夜中に家に来て「話し合いのために」連れ出されます。ジャーナリスト、反テロ作戦参加者、警察官、ボランティアが誘拐されました。その中には、ブズコウ公園で死者を悼んだ神の聖母教会の神父であるセルヒー・チュディノヴィッチ(セルヒー神父)がいました。

セルヒー神父は、最初ロシア軍の態度が普通だったと言いました。しかし避難後に、彼は真実を話すことは危険であると説明することができました。実際、彼は殴られ、脅され、協力を強要されました。

「飴とムチ」の方法を適用して、占領者は強制と脅迫から「解放者」という有名な役割に切り替えました。彼らは、ヘルソンの市民に支援物資と医療をオファーしましたが、地域の人道封鎖を設定したのは彼ら自身でした。同時にロシア軍は、ウクライナ人に、彼らは見捨てられたとされていること、ヘルソンとその周辺の村はもはや「キーウの政府」に必要とされていないことを常に強調しました。たとえば、クリミア自治共和国の元検察官であるナタリヤ・ポクロンシカは、この地域の領土であるとされる所で自身の写真を撮り、ロシアの支援物資の配達について話しました。彼女によると、ロシアの物資を受けると家に放火するとウクライナ側が脅迫したということでした。

しかし、脅迫は地域の住民を止めることはできませんでした。市民が互いに支え合っていました。彼ら自身が物資を輸送し、倉庫に残り物を集め、黒海沿岸地方とザポリッジャ地方および下ドニプロ地方の領土から輸送された個々の貨物を目的地まで届けました。

人気テレビ番組「マスターシェフ」の優勝者であるパウロ ・セルヴェトニクと彼のチームである「Breadman」は資金を集め、ヘルソンのパン製造所と一緒に無料でパンを焼きました。

ロシアの砲撃のために電力なしで運営していたヨーロッパ最大級のチョルノバイウカ養鶏場からの鶏と卵の一部は、住民や近隣の農場、企業の従業員に配布されました。ロシア連邦の犯罪行為により、400万羽以上の鶏が死亡し、その死体は適切に処分できませんでした。

写真 : WSJ.

地元住民の抵抗はロシア人を混乱させました。拉致され捕虜になったカホウカのジャーナリストであるオレフ・バトゥリンは、ノヴァ・ハゼータとのインタビューで次のように述べています:

― 尋問の後、彼ら(ロシア軍)は窓を開け、ちょうどその時、自由広場で大きいデモが行われていました。私を尋問した人々の混乱を感じました。彼らは「私たちはこの人々を解放のために来たのに彼らは歩いて何かを叫んでいる」と言いました。

ロシア軍はそのような屈辱に精神的に耐えることができず、3月21日に一線を越えました。ヘルソンの美術評論家は、この出来事の目撃者になりました。午前中、彼女は友達の誕生日パーティーに行く予定で、プレゼントを買いに立ち寄りました。デモのそばを通りかかったとき、デモが強制的に解散させられているのを見かけました:

― 銃撃が始まり、爆発、サイレンが鳴り響き始めました…最寄りの場所で、美術館(ヘルソン現代美術館)に逃げないといけないということは分かっていました。そこで詳細を確認しました。占領者は、天の百人の英雄のモニュメントに「ウクライナ軍はドンバスの子供たちの殺人者です」と書きました。市民はその書き込みを消し始めました。オークたちはスタングレネードと催涙ガスグレネードを人々に投げつけ、発砲し始めました。けが人がいて、今のところ怪我の詳細はわかりません。他の人は機関銃とブーツで殴打され、3人のデモ参加者が連れ出されました(公式データによると4人が負傷。)まあ、そうなることはわかっていました。

Share this...
Facebook
Twitter
Share this...
Facebook
Twitter

3月21日〜30日 酸素が少なくなっている

ロシア軍は狂っているようです。彼らはますます暴力を増やし、市民の自由を制限しています。その後のヘルソン市民の平和的デモは、何度も何度も銃撃されています。デモ参加者は警棒で無差別に殴打され、彼らに対しスタングレネードが使用されています。占領者はヘルソン市庁舎の建物を押収し、ウクライナの旗を取り除いています。その後、地域の新しい首長が任命されます。地元の人々は彼らを「大管区指導者 / ガウライター」と呼んでいます。それはドイツの占領体制時代の言葉で、行政および地域の役職に付けられた名前です。

侵略者は協力者を新しい指導者として任命しました:

ヘルソン市議会の元会長のヴォロディーミル・サリド、そして当時誰にも知られていなかったオレクサンドル・コベッツでした。ロシア政府の代弁者はキリロ・ストレモウソフで、親ロシアと反ワクチンの活動家、2014年に組織された反ウクライナデモ、さらには殺人容疑でも「有名になった」忌まわしい活動家です。

その時メディアは、ブチャ、ホストメリ、イルピンでのロシア軍の残酷な犯罪に関する最初の情報を公開しています。これにより「キーウ政権からの解放」というプロパガンダの話を広めることが難しくなったため、ヘルソンの占領者は戦略を変更しました。彼らは明らかに友好的に振る舞い始め、地元の人々に「私たちはあなたを屈辱していないよね?」と尋ねました。ヘルソン市民がそれに陥るという侵略者の希望が無駄だったことは明らかです。またロシアの兵士は、自分たちの行動を正当化し、抵抗の終結を求めるビラを配布し始めました。ちなみに、そのような印刷情報資料は、ウクライナの他の地域でも使用されていました。

その時期に、市民の多くは自力で地域から避難しました。自分の車で避難する人もいれば、徒歩で最寄りのより安全な地域まで移動する人もいました。人々は、このままお金もなく絶え間ない砲撃や自由への制限を恐れずに平和に暮らし働くことはできなくなりました。停電、水、ガスの無提供、食料と医薬品の供給の問題 、これが、ヘルソンの占領者が行っていた「ロシアの世界」です。クリミアを経由してジョージアに向かい、ヨーロッパに至るルートは完全に安全でした(この記事の著者の個人的な経験から。)しかし、誰もがそのルートを使用できるわけではなかったため、多くの場合、スニフリウカからミコライウへの道、またはダヴィディウ・ブリッドからクリヴィイー・リーフへの道が選ばれていました。それは正式な避難経路ではありませんでした(この記事の公開時点では「避難回廊」はいっさい発表されていませんでした。)ウクライナ軍が駐留するボーダーラインにたどり着くには6〜10時間かかる場合があり、途中でウクライナとロシア両方の10以上のチェックポイントがありました。

避難しようとしていた人々に、さまざまな情報源や避難に成功した人々から次のようにアドバイスを提供しました:

親ウクライナの立場を表す可能性のある通信や写真を電話から消去すること

「どこへ行くのですか、ここは静かなのに」という質問に対して 「祖母のところへ、支配下にある領土の人口密集地に行く」と答えること

占有者への「通貨」となるチップスとタバコを持っていくこと

食べ物で貴重品を覆い、ロシアの兵士の気を散らすこと

親ウクライナのタトゥーを隠すこと:女の子の場合は目立つ場所、男の子の場合はすべて(若い男性は検問所で服を脱がされた)

車体にお金を隠すことと、検問所を通過するために約200ドルを支払う準備すること

ロシア軍に対して議論したり失礼なことを言わないこと

以上のルールに違反した場合、ロシア軍は人々を奪ったり、殴打したり、誘拐したりしました。

車列が検問所を通過することを許可されなかったり、軍事装備の輸送のための「人間の盾」として使用されたりするケースは少なくありませんでした。

その当時では、「ガウライター」はウクライナの土地を掌握するさまざまな方法をますます積極的に検討していたようです。彼らのメディアでは、所謂ヘルソン人民共和国(自称ドネツク人民共和国と自称ルハンシク人民共和国のように)の形成、 ロシア連邦への加盟に関する国民投票、19世紀~20世紀に存在したタウリヤ県の復元に関する国民投票についての言及がありました。そのような計画を実行するには、まず第一に人数が必要であるため、侵略者は誰もこの地域から出させないことにしました。

ヘルソン地域から出ることに関する禁止は5月11日まで続いていました。同時に支援物資、治療、占領下のクリミアへの旅行、その他のサービスと引き換えに、市民の個人情報があらゆる方法で収集されました。さらに、彼らは市民を喜ばせようとし、5月9日まで、「最前​​線の(ウォッカ)50グラムとお粥」への招待状のポスターを掛けました。

それと同時に、占領者は地域の脱ウクライナ化を強化しました。彼らは天の百人の英雄の路地やウクライナ紋章、「ウクライナ」のイラストを解体し、ロシアの旗を掲げ、壁にロシアの愛国的な絵を作成しました。しかしその当時、ウクライナのパルチザン運動はすでに市内で活動していました。

パルチザン

危険の高まりは、オープンなデモ行動を脅威にさらしています。 地域の住民は主に生き残ることを気にしていました。食べ物や医薬品の取得、書類の申請、請求書の支払いなどです。生産に多くの苦労と資金を投資した農家は、わずかなお金を稼ぐために、地元でそれをほぼ価格なしで販売することを余儀なくされています。食品がこの方法で販売されていなければ、占領下のクリミアに無料で持ち込まれることもありました。そのような「機会」を拒否した農民は、占領者によって収穫物を道端に捨てさせられたため、収穫の一部は無駄になりました。

しかし、ヘルソンと近くの村の住民の隠れた抵抗は占領者に平静を保つことを許しません。家の壁に脅威や愛国的な表現のあるポスターや画像が表示されることがますます多くなり、敵の何人かの人にとっては朝が訪れなくなってきました。パルチザンが3月にロシアの協力者であるパウロ・スロボドチコウを排除した後、ガウライターは警備員と共に防弾チョッキで街中を移動し始めました。夜になると、ヘルソンのさまざまな地区(例1、例2、例3)にリーフレットが表示され、これは残りの協力者に同じ運命が待っている可能性があることを示唆しています。

Share this...
Facebook
Twitter
Share this...
Facebook
Twitter
Share this...
Facebook
Twitter

国会議員(暗殺未遂時)のオレクシー・コヴァリョウ、NGO「ノヴァ・ルーシ」の創設者であるドミトロ・サヴルチェンコ、ロシア人によってチョルノバイウカ行政長に任命されたユーリ・トゥルリョウや他の裏切り者たちが、民衆裁判にかけられた人たちのリストに加わりました。

そのような抵抗を考慮して、ロシア人はプロパガンダの「創造力」に頼っています。ヘルソンの中央広場で写真展が開催されており、その写真は、ウクライナが東部で8年間子供を殺害し、2022年3月にもドネツクを砲撃したと非難しているものです。この展覧会は、まさにデモが解散され、テロが行われ、ミコライウへのミサイルが発射されたと同じ場所で開催されています。

しかし、これは占領者が目標を達成するのに役立ちません。ロシア軍を伴って行われたフランスのメディアであるFrance 24とのインタビューで、トロリーバスの車掌は自分がウクライナ側であることを大胆に宣言し、ヘルソンが以前のように自由になることを望んでいると言いました。占拠者が主催した教師会議では、大多数が協力を拒否し、施設を立ち去りました。民主的に選出された政府に取って代わることができる協力者を探すのに何ヶ月もかかっています。時にはリーダーが本人の同意なしに任命されることもあります。たとえば、オレシュキでは、5月末にようやく新しい所謂市長が見つかりました。

4月末、ヘルソンで占領者に対する非暴力抵抗運動「イエローリボン」が開始されました。イエローリボン活動というのは木や手すりに黄色いリボンを掛け、バックパックや衣服にも着用され、親ウクライナの立場と占領政府の活動への反対を表明するものです。活動は現在も進行中です。これが、ヘルソンの人々が互いに支え合い、文化的抵抗の戦線を保持している方法です。

ロシアの兵士は、旗が足元に投げられ、プロパガンダ資料が引き裂かれ、プロパガンダの看板が汚されているのを発見しました。

5月30日、ヘルソンとその周辺の村の住民は、ウクライナのモバイルネットワークの代わりにロシアのモバイルネットワークが使用されていることに気付きました。これは、ロシアの「ネットワークスペシャリスト」の活動によるものです。パスポートの個人情報と引き換えに外で携帯のSIMカードが提供され、インターネットサービスプロバイダーはロシアを経由してトラフィックをルーティングせざるを得ませんでした。同日、市内中心部の拡声器は、ウクライナがヘルソンと近くの人口密集地をネットワークから切断したとされている旨を発表しました。しかし、ウクライナ人は、市や村を破壊し、故意にインフラを破壊しているのは誰なのかを知っています。そして、一時的に占領された地域の住民がVPNの使い方を学んでいます。

自由への道

領土の占領方法は、ロシア連邦では何年も変わっていません。ステージの順序は異なる場合がありますが、本質は常に同じです。

1) 妨害活動のために軍の派遣団を民間人の生活に同化させること

2)「あなたは見捨てられた」という物語を広めること

3) 人道物資の実証的な提供と同時に他の地域で物資をブロックすること

4) 文化生活と日常生活の完全なロシア化

5) 経済封鎖:脅迫と生存のための代替手段の欠如による協力の強制

6) 疑似国民投票を実施するための個人データの抽出

7) 内部紛争の凍結とそれを使用した状況の不安定化

1992年に沿ドニエストル共和国が成立して以来、ロシア軍の助けを借りて創設された所謂人民共和国はすべて、この道を歩んできました。これは虐待的な関係と非常によく似ています。意志を抑圧し、犠牲者に抵抗しないように強制するのです。

侵略者が占領地のウクライナ人に、政府と防衛者が自分たちを勝手に放棄したと説得しようとする試みはすべて、現実によって打ち砕かれています。最前線の都市(ミコライウ、クリヴィイー・リーフ、ザポリッジャ)は、避難民を受け入れ、食事を提供し、泊まる場所などを与え、そこに慣れるように支援するためのセンターを組織しています。コティキ・パトリオティキ(Котики-патріотики)、ヘルソン(ХерсОN)、ザーヒスト基金(Захист)などといったボランティア団体は超人的な努力で医薬品、製品、衛生製品を一時的に占領されたヘルソンとその周辺の村の領土に届けます。そして、地元住民と一緒に、ヘルソン市庁舎にウクライナの旗が戻ってくるのを待っています。

もちろん、多くの出来事と英雄の名前は、勝利後にやっと知られるようになります。今は、南部の住民は毎日侵略者に抵抗しており、戦わず自分たちの土地を手放すことはありません。

コンテンツ作成スタッフ

Ukraїner創設者:

ボフダン・ロフヴィネンコ

企画:

イェリザヴェータ・ヴォウチェンコ

編集長:

アンナ・ヤーブルチナ

編集:

カテリーナ・レフカ

写真編集:

ユーリー・ステファニャク

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

翻訳:

リュボフ・カルジリオ

翻訳編集:

藤田勝利

Ukraїnerをフォローする